霹雳主坑,本命地冥
产粮随机,是个杂食,旧坑刀剑/三国/猎人
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是个写手,图是约的,不要盗用,拒绝AI
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写文屯资料,关于山南的佩刀赤心冲光。

计划赶不上变化,两个月前写大纲的时候《叛骨》的boss就设定是暗堕的赤心冲光,然而最近刷大河剧,山南敬助简直好感度up!突然不舍得让他的佩刀暗堕成boss了⋯⋯尼玛看总司替山南介错那段真是快要哭出来QAQ

赤心冲光在吴服屋折断的时间比加州清光还早一年,然而不得不说赤心冲光暗堕设定意外带感,尤其是想到总司给山南介错的那把刀就是安定←所以不论是否是山南自己提出的总司介错(土方最开始说让斋藤一介错来着),对赤心冲光而言大和守安定都是杀了他主人的人(刀)_(:3」∠)_

我好想写BE啊然而《叛骨》是答应好了的安清HE√

下面是赤心冲光的资料。

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山南敬助佩刀赤心沖光刀的押型
文久3年7月,近藤勇送了三把破损的刀回乡。
其中一把就是山南先生的赤心沖光。
这三把刀的押型記載於文久4年小岛家甲子異聞錄第7卷里。
就是这副血刀图,产生了山南先生受伤说。


关于赤心冲光的刀铭,我查到两种,一种是「播州赤心沖光作」と銘の入った2尺8寸5分の刀が、激しく刃 毀れし、切っ先から1尺1寸の所で折れました,另一种『摂州住人赤心沖光作』の銘が記。

下面一段是日文的关于赤心冲光的介绍:

『赤心沖光』の赤心には、いつわりのない心・まごころという意味があります。いつわりのない心、つまり誠の心 です。

そしてここからは勝手に私が結びつけているのですが、沖光の沖は沖田の沖、光は光縁寺の光ですよ、みなさん、すごいでしょう(笑)

沖光はさておき、『赤心』の意味を思うと、胸が熱くなるわけでございます。

刀など一振りをずっと使い続ける事など不可能です。

山南の赤心沖光にしても升屋の一戦で使いものにならなくなっています。

池田屋において早々に脱落した沖田でさえ帽子折れになり、廃棄です。

愛刀などというものは実戦の場に居た新選組にありません。

岩城升屋事件 山南敬助使用刀の折れた刀の押し型

痕跡の概要

 痕跡の種類新撰組 折れた刀の押し型

 刀の元所有者北辰一刀流免許皆伝、天然理心流、新選組副長 山南敬助

 刀の誕生事件大坂高麗橋所在の呉服店「岩城升屋」を強請る不逞浪士を新選組が取締事件

 事件発生場所大阪市中央区高麗橋1-6 (現高麗橋豊田日生北浜ビル辺り)岩城升屋

 刀の誕生日不詳であるが、将軍徳川家茂護衛の為新選組が大阪に所在中

山南敬助が会津公から金8両の賞金を貰った先の頃(文久3年説等有り)

 押し型の現所有者刀折れの押し型は東京小島資料館が所蔵 (現物所在地は情報調査中)


1 折れた刀の押し型

 折れた刀の拓本は撮影禁止でしたので写生をさせて頂きました。

 押し型は写生の様なものでありましたが、刀の銘や特徴は写生に説明のとおりであります。

 明確に写生出来ていませんが、折れた場所は、刀先から1尺1寸の、刀の「もの打ち部分」であります。

2 岩城升屋事件と折れた刀

 文久3年(1863)7月、将軍徳川家茂を警護する為新選組が大坂に滞在中、高麗橋傍の呉服商岩城升屋に不逞浪士数人が押し入る事件が起きました。


 山南は土方と岩城升屋に駆け付け、激戦の末に不逞浪士を撃退し、その功により山南は松平容保から金8両を賜っています。


 この時、山南が使った「播州赤心沖光作」と銘の入った2尺8寸5分の刀が、激しく刃毀れし、切っ先から1尺1寸の所で折れました。(上段左見取り図参照)


 この折れた刀は押型(魚拓の様に折れた刀の型を取ったもの)にされ、土方の手で小島鹿之助に贈られ、現在は小島資料館で見る事が出来ます。


3 山南敬助と岩城升屋事件

 同人は、文久3年、将軍警護と尊王攘夷目的で、清川八郎が浪士組を組織したのに応じて、近藤勇や試衛舘道場の人達と共に応募ます。


 上洛して、清川八郎が攘夷寄り演説をしたことに反発し、芹沢鴨や近藤勇等が局長、山南は副長となり壬生浪士組(後の新選組)の結成を致します。


 その新選組が、文久3年7月、将軍徳川家茂を警護の為大坂に滞在中、高麗橋の呉服屋岩城升屋に不逞浪士が押し入る事件が発生し、山南敬助と土方歳三が駆け付け実力行使で取り押さえました。


 この時の激戦で、山南敬助が使用した刀が折れ、同人も相当の怪我も負った様ですが、その功績によって会津容保公から金8両の手当てを頂戴しました。


 その折れた刀は、土方歳三によって「押し型(魚拓の様なもの)」に採られて、江戸の知人「小島鹿之助」に送られました。


 この押し形は、平成16年4月、NHK主催、京都文化博物館「新選組展」や同年江戸東京博物館開催の「新選組展」にも展示されましたが、平素は小島鹿之助資料館にて拝見する事が出来ます。


 新選組内に居た山南さんは、副長や総長を務めたり、後に脱退した伊東甲子太郎と親交があったり、法度の局を脱走し、大津まで逃げ延びましたが、そこから沖田に連れ戻されて切腹したり、遊女「明里」と切腹前のデートをしたり、謎や話題が尽きない行動をした事でも有名であります。


 例えば、山南脱走事案について、大津で追手の沖田総司に追いつかれたとあることについて、大幹部が何故脱走したのか、追いつかれた個所は、彼は何故東に逃亡したのか等は、未だに想像の域を脱していない様であります。


謎と言えば、彼のお墓は、京都市下京区綾小路通大宮西入る四条大宮町光縁寺にあり、同新選組隊士「河合耆三郎」や「伊東甲子太郎」「藤堂平助」等と眠っておられましたが、後の2名は後刻戒光寺に移されています。


尚、不逞浪士の乱暴狼藉のあった大坂(現、大阪市中央区高麗橋1-6高麗橋豊田日生北浜ビル辺り)の「岩城升屋」は、現在ビル街となっており、現地にその形跡を見つける事は困難な状況でありました。

4 山南敬助と小島鹿之助

 土方の義理の兄、佐藤彦五郎と共に、近藤勇と義兄弟の杯を交わし、浪士組出発の時には近藤は鎖帷子、土方は刀一振りを頂戴しており、以後も勇の後援者となる。


 近藤が、甲陽鎮撫軍を起こすと、義兄弟として「小野農兵隊」から援軍を立ち上げたが間にあわず解散。


 鹿之助は、新選組の主流幹部が学んだ剣の道「天然理心流」の兄弟弟子や義兄弟でありましたので、試衛舘に学んだ山南敬助が同人との関係はその時からと思います。


 山南敬助は、沖田総司等と共に、小島鹿之助方に宿泊したりして交わる等の親交があったようです。


 新選組は、刀を用い、且つ使う集団として知られていますが、その為か、「局長近藤勇に愛刀虎徹伝説」があったり、本題の山南さんの「折れた刀伝説」があったり、刀槍伝説が多く残っています。


 ここでは、折れた刀の押し型をとったりしており、この所作や動作で武士の魂と言われた刀に対して、新選組が如何に関心を持つ集団であったか分かる気が致します旅でございました。


以及山南先生的基本信息:

山南 敬助(やまなみ/さんなん けいすけ、天保4年(1833年)- 元治2年2月23日(1865年3月20日))は、江戸時代末期(幕末)の武士・新選組隊士(副長、総長)。陸奥国仙台藩出身。諱は知信(とものぶ)。晩年は三南三郎を名乗っていた。

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